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雑煮【JAコラム】

2021年12月19日コラム

伝承料理研究家●奥村彪生

雑煮の起源については諸説ありますが、文献記録に出てくるのは室町時代。京都の足利将軍家などの高級武家における婚儀の夫婦固(めおとかため)の杯を交わすときの酒こうとして用いられました。当時の『小笠原流礼法伝書』によると鏡餅の分身である丸小餅に開運縁起物の海山の幸を組んだ、みその澄まし汁(垂味噌)の煮物です。雑は大ざっぱの意味ではなく、種々(くさぐさ)という意味です。

丸小餅は円満を意味するとともに固く両家と夫婦を結び、かつ望みをかなえるに通じます。

この雑煮がおいしかったので、その後、貴族などに受け入れられ、来客のもてなしに利用されるようになり、烹雑(ほうぞう)と呼び変えられました。15世紀末、正月元旦になると金閣寺において雑羹(ざっかん)と称して祝いの酒こうとして用いられました(『鹿苑日録』1488年)。具は「餅、豆腐、里芋、なずな、昆布」で、味付けはみそ。

この金閣寺の雑煮が江戸時代中期の京都の人々に受け継がれ、甘い白みそ仕立ての雑煮になりました。ここから近畿一円へと広がっていくのです。一方、江戸は幕府の威信を示すニューモードの角餅と澄まし汁(垂味噌からしょうゆ仕立て)になり、後進地の東日本の各藩は江戸風一色に染まりました。例外もあり。片や西日本の各藩は京風と江戸風を折衷して丸餅と澄まし汁になりました。

正月の雑煮が全国で庶民化するのは江戸時代末期から明治にかけてで、現在の型が出来上がるのは明治40年代です。鶏や牛、豚、エビなどが入るのはこの頃からです。それでも昭和の戦前までは大都市を除く地方の農山漁村では江戸時代同様に身の回り(四里四方)の産物を用いた食生活でしたから、各地の雑煮のだしや具に違いが出たのです。500種類はあるといわれる雑煮こそ、まさに文化財的食べ物といえるのです。

JA広報通信11月号より

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